アイラブユーは君だけさ

だいたいそんな感じ

後戻り許さぬひと


五関さんのことを、もう自分の唯一のポジションに置かざるを得ないと思い知ったとき、わたしのなかにあったのはただ不吉な予感だった。

普通は自担に落ちた瞬間って幸せなんだろうけど、わたしはその時を思い出すと、どうしても言葉にして「不吉」しか思い浮かばないんである。

忘れもしない2015年10月25日の夜公演、その時点で観劇した回数は10を超えていて自分でも駄目だ駄目だと思っていたんだけど、どうしても機会があると観に行きたいと思ってしまって、そうして入った公演だった。
席は二階の下手側、双眼鏡を使って五関さんを観ていた。

多分もう5月のアリサマから道は決まっていたんだろうとは思うけど。五関さんを観ているとやはり頭が真っ白になってその姿を脳に焼き付けることしか出来なくなる、自分というものがただ目だけの存在になったかのような、恐ろしい感覚に陥る。意識してなくても鳥肌が立っていることはどこかでわかっていた。
道は自分の前にずっとあったんだけど、今まで自分が歩いてきた道とその道の間には奈落に繋がる深い谷があって。落ちる恐怖で、先に進みたいけど飛べない。普通に考えたら一足跳びに向こう側へ行けるのに、わたしはその谷が怖くて、だって暗くて、見ないようにしていたんだ、なるべく。

25日、五関さんが背を向けてジャケットをおろしてゆく様をみて、またあの不吉の予感がした。双眼鏡を持つ手だけが冷静で、後の全てがこのまま観ていたら駄目だと思ったのに。
わたしが観ていた二階からは、客席に背中を向け、あの日と同じようにジャケットをおろしている五関さんの口元が、笑っているのが見えた。

五関さんの、そのアルカイックスマイルといって良い口元の微笑みが、わたしを新しい道へと飛ばしてしまった。

わたしは知らなかった、あんなに恐れていた谷の底、深い奈落よりも、その新しい道を歩いていくことの方が、余程恐ろしいということ。

 

五関さんを好きで、自分の中で唯一の、一番のポジションに置いているということは、楽しいというよりは生きてゆくなかでの生命活動を維持する為の一部というか、そんなようなもので。

ステージの上に立つ五関さんを観ることが、そこで生きている五関晃一というひとに頭からなにから全てを真っ白にされてしまうことが、この先生きていくうえで必要になってしまったということで。

 

いつか道が途切れて今度こそ奈落へ落ちたとき、底はきっと海だろうと思う。暗闇にひと筋の光があって、そこではスターダンサーが踊り続けている。ヴァイオリンの音が聞こえるそこでなら、漸く足を止める事が出来ると思うのだ。

それまでは五関さんの立つステージがある場所へ、わたしはこの道を歩き続けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルカイックスマイルとは、無表情にも拘らず口元に笑みをたたえたような表情のこと。

五関さんがダンスの狭間に見せる確信的ではないあの微笑みは、きっとそれに違いないと思い続けている。