アイラブユーは君だけさ

だいたいそんな感じ

一寸先も見えはしない

初めてきちんと認識した瞬間から、もう言葉を全部奪われていたのかもしれない。

 

 

どんなふうにあの瞬間を言葉にしていいやら、さっぱりわからなかった。

 

 

それは、KAT-TUNから降りてすぐの五月のこと。
Quarterを二日間観終えて、七年間のKAT-TUN担人生を終えたすぐ後のこと。

We’re Fightersでセンターステージに立つその人を、わたしは知っていると思っていた。KAT-TUNのバックについているジュニアだったから、名前も顔も知っていた。そういう意味では、知識としてきちんと知った上でコンサートを観に行った。
だけれど、その人となりを知っていたわけではなかった。それを、ソロコーナーで出てきた彼を見た瞬間に思い知った。

ジュニアの背を駆け上ったそのすぐ下の席にいたから、あの顔を下から見上げて、そして頭が真っ白になったことを今でも覚えている。真っ白になったのに覚えているってのもなんだか変なんだけど。そしてあの背を見せつけるようにしてジャケットを下ろした瞬間、代々木の会場が割れんばかりの声が聞こえて、わたしはといえば声も出せないまま何が起こったのか理解もできず、ただ鳥肌がぶわっとたって、暑いんだか寒いんだかよくわからない感じになった。

花道を弾むような足取りで駆け、メインステージで踊りだした彼の名は五関晃一。
どんな時も譲れないぜと口にする時のその笑顔が、コンサートが終わっても離れなかった。


わたしはそのコンサートについての感想で「よく意味がわからなかった」と友人に言った。今まで観てきたどんなコンサートとも違った。一言で言うのなら質素。勿論、いい意味合いで言ったのではなかった。ただ、不思議とあとを引くものがあって、その中でもだんとつに印象深かったのが五関さんのソロ曲だったのだった。
演出といった演出は最初の方にしかなく、至ってシンプルに身一つで勝負する感じに受け取れたそのWe’re Fightersがとにかく衝撃だった。
わたしは趣味で時たま文章なんか書いたりするのだが、五関さんのソロ曲で得たあの感動とも恐怖とも言えるような体験をどうしても言葉にできなくて、とてももどかしく感じた。一応、書いてみようと努力はしてみた。が、どんな言葉で表そうとしてもなんだか上滑りしてしまって、どんどん書きたいことから逸れてしまうのだ。
今までにそんな経験をした試しがなく、不安な心持ちになった。

あのざわざわした感覚に陥るのがなんだか怖くて、あまり自分から積極的にA.B.C-Zに手を伸ばすことができなかった。番組とかは観ていたように思うけども。
そんな折、友人からかけられた声によって再びコンサートに行くこととなる。

そのコンサートの内容は五月の焼き直しのように感じられて、やはり「惹かれる」というほどではないと思った。
その雰囲気に馴染めていないのもあって、楽しみながらも一歩引いた感覚は常にあった。

それでも二回目だったから多少は心構えが出来ていた。
We’re Fightersは短くなっていたけれども、やはり衝撃を受けた。

あの時、わたしが感じたのは「不吉」だった。なんだか禍々しいくらいの、物凄いものが、自分に迫って来る感覚。不吉としか言いようがない。でも、抗えないかもしれないその力に押し流されてみたくもあった。そういう類の、危険さのある魅力だった。
今まで自分が観てきていた何もかもが根こそぎ焼かれるような感覚は、本当に恐怖でしかなかったのに。その不吉さは、でも絶対に逃れられないもののようで。
結局、一度囚われてからは見えない糸に導かれるみたいにして五関さんしか見えなくなってしまった。

あんな、身を貫くような不吉さを味わったことは今までで一度もない体験だ。
意味合いとして合っているかどうかはわからないけれど、そうとしか言えないような感覚だったんだから仕方がない。
そうしてわたしはA.B.C-Zを応援する身となった。こんなことになるなんて思ってもみなかった。五月のあのコンサートがこんなふうに人生に関わってくるとは。正直、物見遊山というか、どんなもんかな?みたいな軽い気持ちで足を運んだことが、今となっては恐ろしい。

五関さんを見て、もうこの人しかいないと思ったあの瞬間は奇しくもABC座2015ショータイム、自分の名前がコールされた瞬間だ。あの場面はアドリブでその回ごとに違う物になっていて、まあ同じ事をやるときもあったのだけど、わたしを決定的に突き落としたのは、We’re Fightersの背中を見せつけるあのポーズだった。
あの何もかもを奪われたような一瞬を、その時よりは五関さんのことを知った身で経験し、もう一度あの時のような不吉な感覚に襲われて、わたしは悟った。

もう逃げられない。

そう思った途端、憑き物が落ちたかのようにストンと納得した。
きっとあの恐ろしいばかりの不吉さに貫かれた時から、こうなることは決まっていたんだと。
何度も迂回しようとしたし、他の道の明るさに目を奪われたりもした。でも、わたしの足はどうしても五関さんの立つステージに向かうのだった。そこが自分のいるべき場所だと思った。頭で理解して、文字に起こすまでにこんなに時間がかかったけれど、つまりはそういうことなんだと思う。

十一月。わたしのずっと応援してきた彼がジャニーズを、去ることを発表した。
自分が彼のいる場所から遠ざかっても、ずっと彼はジャニーズのステージにいるものだと思っていた。
あの素晴らしいパフォーマンスは、わたしが離れても変わらずに向上し続け、人を魅了していくのだろうと信じて疑っていなかった。以前の離別に悲しんでいた彼がする決断とは到底思えずに、混乱した。

彼は五関さんと同い年だった。自分の人生を大事にする、といったような言葉を残して、彼はジャニーズからいなくなった。

わたしは怖くなった。
絶対的なものなんてないことくらい知っていたと思っていたのに、絶対的だと信じていたものにあっさりと「そんなことはない」と言われてしまったのだから。


どんな言葉を尽くしてもステージに立つ五関さんを表す事なんかできない。
自分の知っている言葉では、五関さんに対する感情を吐き出しきれない。
時折苦しくなる。自分の中の、五関さんに対する様々な感情で押しつぶされそうになる。

でも、だから、五関さんはいつもステージに立つその姿でわたしを真っ白にしてくれるのだ。
いつかはステージから、五関さんも降りるのかもしれない。考えたくはないけれど、そんな日がいつか来てしまうのかもしれない。
それでもいい、その日まで五関さんがステージに立っていてくれるのなら、わたしはそれをみていたい。絶対的なものなんて存在しないけれど、五関さんがステージに立っている瞬間は間違いなく絶対だから。

そして、わたしは諦めたくない。真っ白にされ続けるだけなんてとても我慢がならない。五関さんを言葉でどうにか、自分の中に、落とし込みたい。表したい。自己満足の極みみたいなものだけど、それが五関担としてわたしがやりたいことの一つだから。

もうすぐ、あの真っ逆さまに五関さんへおちた日から、一年が経つ。
あの日からちょうど一年目の日に、五関さんを観に行って、わたしはどうなるんだろう。
期待と不安と、そして楽しみだという気持ちもある。

そして明日もまた、ステージに立つ五関さんを観に行く。
きっとまた圧倒されて帰ってくる。それをずっと怖いことのように思っていたけれど、初日を見てからずっとふつふつと沸き上がってくるこの感情が闘志だと気づいたので、もう怖くない。

…っていうと嘘になるけど。でも怖いだけではなくなった、と思う。
五関さんを表せる言葉を見つける、自分への闘志だ。


好きなだけではいられない、五関さんという人をもっと観たい。
今はただ、その一心だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五関さんは決定的な瞬間、いつも笑顔だ。

それがどうにも、わたしには恐ろしく、そして、魅力的だ。